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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2012年12月 島薗教授おすすめの図書



 ロベルト・シュペーマン 著、山脇 直司・辻 麻衣子 訳
 『原子力時代の驕り−「後は野となれ山となれ」でメルトダウン』
                          知泉書館 2012年刊


 ドイツでは2011年5月30日に、連邦政府の「安全なエネルギー供給のための倫理委員会」による報告書「将来のエネルギー供給のあり方について」が示され、メルケル首相はそれにそって「脱原発」への歩みを進めていくことを宣言した。そもそも「脱原発」という語はチェルノブイリ事故後にドイツで広く使われるようになった「アウスシュティークAusstieg」という語の訳語として使われたのが広まる一つのきっかけだった。このドイツ語は「下車する」という意味の語で、すでに原発が社会で一定の役割を果たしていることを認めた上でそれへの依存からの脱却を図ろうというものだ。
 この委員会が「倫理委員会」と名づけられていることは注目すべきことだ。ドイツでは原発を進めていくかどうかは、倫理の問題として熟慮し判断すべき事柄だと理解されている。もちろん科学によって得られる情報や技術は重要だ。だが、科学は科学からだけでは答えを導くことができない問題(トランス・サイエンス)と切り離せないと広く認識されている。だからこそ核をめぐる国の重要な方針は倫理委員会で討議され、決定される。この委員会メンバーには人文社会系の学者や宗教界に属する有識者が多いのだが、こうした認識を反映したものだ。
 このような共通認識が存在するのは、実際、原発の推進如何が倫理に関わる重要な問題であることを多くの国民に納得せしめるような議論が行われてきたからだろう。その倫理的な観点を重視した充実した討議の担い手の一人としてよく知られているのが、1927年生まれの哲学者、ロベルト・シュペーマンだ。キリスト教徒(カトリック)であることを自ら示しながら、宗教・宗派の違いを超えて尊ばれるべき倫理的な考察を示し、世界のカトリック教徒に対し、またドイツ世論に対しても大きな影響を与えてきた学者だ。
 『原子力時代の驕り』には6編の論文とインタビュー記事が収録されているが、それぞれ1979年、81年、88年、2006年、11年、11年に公表されたものだ。この哲学者はチェルノブイリ事故が起こり、ドイツの世論が脱原発へと傾いていく以前から、一貫して原発の非倫理性を説いてきたことが分かる。
 随所に鋭い考察が示されていて、教えられることが多い書物だが、文章が書かれた文脈を想像しにくい現代日本の読者にとって必ずしも読みやすいものではない。シュペーマンの指導のもとで博士論文を書いた山脇直司氏の案内(「訳者解説」)によれば、「本書を貫く……基本思想」は、「放射性廃棄物の最終処分場が決まらない状態で原発を稼働させることは、将来世代に対して不当な要求を強いるものであるが故に、倫理的に不当である」というテーゼである(115-116ページ)。
 79年に公表された「政治的倫理の問題としての自然界への技術介入」を見てみよう。上記の基本テーゼにあたることは次のように述べられている。「……重要なのは、子孫たちの生命と自由がいかなる仕方でも侵害されない状態のまま、世界を残す義務が人間にあるということと、我々によって強いられた負担とともに世界を受け入れるよう子孫に安直に期待してはならない」ということだ。より具体的には、「第1に、重要な量の不可逆な変質が地表近くに残されないこと」、また「第2に……自然に内在する危険――地震、火山噴火、大嵐など――のほかに、我々が物質を変化させることによって、さらなる危険の源を我々の惑星に付け加える権利など持たない」ということだ。
 人間はリスクを引き受けながら人間の福利となるものを手に入れて来たのだから、原子力の利用も同様に考えて受け入れるべきだと論じられる。だが、まずリスクの量がどれほどのものであるか分からないという事態がある。取るに足りない盗み食いと他の窃盗は区別するが、核技術による変化を前者のようなものと見ることはできない。それにも増して重要なのは、利益を得るものと損失をこうむる者とがまったく異なるということだ。前者が後者にリスクを負わせることは許されない。よく顔の見える同士の今の人たちが、まったく顔の見えない他者のリスクを犠牲にして利益をあげるようなことはしてはならない。「ここでの確率計算は場違いである。誰もその賭けが好結果に終わる蓋然性がとても高いからという理由だけで、他人の生命を賭けてはならないのだ」(39ページ)。
 将来、リスクをどれほど制御できるかについては、60年代以来、評価が変化してきた。原子力の利用に希望をもっていた時代は、いつかリスクも小さなものに減らすことができるという期待のもとに楽観論が唱えられた。だが、いつまで経っても原発の使用によって生じる放射性廃棄物の処理の方策は立っていない。事故も絶えない。こうした楽観による失敗は手近な経済的な利益を得るための科学技術に対する過度の期待が関わっている。それは将来世代の負担を確実に増やしているのだが、そのことには目をつぶろうとする。
 この驕りこそ、邦訳書の副題であり、原著の正題である「〈後は野となれ山となれ〉でメルトダウン Nach uns die Kernschmelze」の意味するところだ。私なりに解釈すると――「メルトダウンが起こるとしても私たちの生きている間のことではない」のだし、求めていることは別のたいへん大きな利益なのだから、付随的な悪影響があるとしても「後で解決すればよい」という考えを指すものだろう。ここでシュペーマンが問題とするのは、近代科学が陥りがちな重大な視野狭窄だ。シュペーマンはある目的のためになされる科学技術の追求から生じる「付随的諸影響」を軽んじる傾向を問題にしている。
 これは原子力開発だけの問題ではない。シュペーマンは生命科学の問題にもふれている。生殖補助医療や人胚研究から生じる危険にもふれている。「認識欲は正当なものであり続けますが、その適用に関わる技術の至るところで、人間は認識と非常にナイーブな付き合い方をしているように私には思えます」(111ページ)。ES細胞培養やクローン技術を、またiPS細胞の研究を人に適用して、どこまで研究を進めてよいのかきわめて難しい倫理問題が関わる。だが、そのような問題はできるだけ避けて通りたい。そうしないと国際競争で遅れを取ってしまうだろう。
 ここに見られるようにシュペーマンは、原発の倫理を近代の科学技術が抱える根本的な問題に由来するものと捉えている。この点で、物理学者のカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーをめぐる逸話は印象的だ。ナチス政権の外務次官を務めた父をもち、戦後ドイツの大統領となった兄をもつこの物理学者はナチス時代に原爆の開発に携わり、戦後はキリスト教の立場から平和運動を進める哲学者となり、シュペーマンと同じくハイデルベルク大学で哲学教授となった。
理論物理学者のカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーは私に、彼が他の物理学者と一緒に捕われていたとき、日本への二度の原爆投下について経験したことを次のように話してくれました。私たちの最初の反応は、「ウォー、うまくいった」だった。けれども、だんだん、「恐ろしいことだ」という認識が沸いてきた、と。
 こうした最初の深い満足感に関する咎めから、科学者たちは自由ではありません。ヴァイツゼッカーは、いわゆる残余リスクについて知っていたにもかかわらず、オーストリアで、当時の首相ブルーノ・クライスキーに原子力発電所の建設に肩入れをするよう助言しました。しかもその時、通常では何も起こりえないということを彼は前提にしていたのです。(108-109ページ)
 これは、たとえば戦争やテロリズムが起こったときに何が起こるかといった論点も無視するような楽観論だ。「それに対して、私は当時、千年に一度起こりうる危険をベースにして、極限状況を顧慮しなければならないと反論しました」。これはリスク評価の立証責任問題に関わる。原発が安全であると確信している人々がそれを証明しなくてはならないはずだ。中世には「疑わしい場合には現状変更は行わない」という保存原理が適用されていた。ところが原発問題では「疑わしきは自由のために」という近代的原理が貫徹されてきた。
 ここでシュペーマンは保守主義者としての論点を提示している。実際、彼は性や生殖をめぐる倫理問題については、かなり強固な保守主義の立場をとっている。保守系の全国紙『ディ・ヴェルトDie Welt』に掲載されたインタビュー「『複数の中での一つの進歩』という考えに立ち戻る」というインタビューで、シュペーマンは「ドイツの緑の党があなたをお抱えの哲学者にまだ選んではいないことを、あなたはどう説明されますか?」という挑発的な質問に応じてこう述べている。「彼らは、一方では天然資源を責任ある仕方で倹約的に取り扱うことを標榜しようとしていたのですが、他方では、過去200年間続いた解放のプログラムを平然と続行しています……」(78-79ページ)。「解放のプログラム」というのは、倫理的制限を取り払って最大限の人間の自由を保証し、欲望を解放しようとする啓蒙主義思想の考え方を指すものだろう。
 具体的な例をあげてほしいと問われて、シュペーマンは人工妊娠中絶と人工授精をあげている。彼はこれらに断固、反対なのだ。これについては多くの異論があげられよう。ここでは私もシュペーマンとだいぶ考えが異なる。だが、こうした医療や生命科学の倫理問題を考える際、近代に助長された「自然と生命に関する無関心」に十分注意する必要があるとする、次のような論点はよく検討してみるべき論点だとも考える。
近代科学は、初めから傲慢な計画でした。つまり、自然的存在それ自体が、目的志向的な形態を持っていること、従って自然的存在にとって、人間が敬意を払わねばならないような事態が重要であることを、近代科学は体系的に度外視していました。代わりに、人々は自然を徹底的に客体化することを憚らず、そしてこの対象化はこの支配の主体である人間をもまた容赦しませんでした。人間が自分の知的行為に至るまで様々なものを、試みに生物学的仮説の対象とするとき、これが意味するのは、主体という自らの身分を雲散霧消させるということです。(83-84ページ)
 より詳しい論述は最初の論文に見られる。「我々にとって、自然の全体的な連関は、コントロールできる介入が可能な対象ではない」。人間の健康や幸福を 決める諸条件を私たちは定義できない。たとえば「我々は、人間の栄養摂取に役立つような動物や植物の一覧をあらかじめ作成できない、なぜなら我々は、今のところは無意味だけれども、動植物にまだ隠されている栄養摂取や治癒の可能性を知らないからである」。種の多様性の現象はその可能性を減らす。ある鳥が絶滅したと知ると悲しいのはなぜか。自分とはとりあえず関係のない現実の豊かさが、実は人間の幸せに深い関係がある。「我々が、今のところ知覚し認知し享受できるものに世界を切り詰めることは、あらゆる享受を破壊するだろう」(30-31ページ)。
 生態学的システム論は、知の限界を超えたものに開かれた態度をとること、つまり自然は「無尽蔵であること」が、人間が自然を享受することの前提であることを教えている。そもそも「科学の進歩」は自然がつねに人知を超えているからこそ、知的探求を終わらせることがなく無尽蔵だからこそ可能なのだった。「知りうるものや見えうるものが、常に、事実として知られているものや見られているもの以上のものだと知ることは、人間が世界に精通するための一つの条件である」(31ページ)。「人間中心主義的視点を乗り越え、生けるものの豊かさに対し、それ自体価値あるものとして敬意を払うことを学ぶ場合にのみ…現代人は、人間らしい存在の基盤を長期的な視野で確立することができるだろう。人間中心主義的な機能主義は、最後には人間自身を破壊してしまうのだ」(36-37ページ)。
 現在の観点から科学が短期的に経済的に利益を追求することが、将来の世代の可能性を奪う場合がある。今知っていることに基づき、自然を思うさま今の人間に役立つ ように利用しようとするのが「人間中心主義的な機能主義」だ。これは英米倫理学で優勢な功利主義にも妥当する。シュペーマンは知られざる自然の豊かさの感知を「自然に対する宗教的な関係」とよび、こうした意味での宗教性が倫理を成り立たせる基盤だと見ている。よく吟味してみるべき捉え方だと思う。

 

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